2025.08.19
昭和から令和へ:富山県の医薬品業界との歩み

 私は昭和48年に大学薬学部を卒業後、富山県内の医薬品企業に入社し、その2年後に現在の企業に移りました。今年が丁度50年になります。令和7年は昭和で言うと100年ですから、大学卒業し52年経ちます。これだけ長く富山県内の企業に勤務し、また医薬品業界の変革を経験した人はいないと思っています。

 特に30歳後半から企業の幹部として経営に携わり、業界の変化を目のあたりに感じて参りました。当時から現在までの業界の流れを私なりに感じたことをお話しさせて頂きます。

 私が社会に出た時には、丁度第1次オイルショックの時であり、狂乱物価となりトイレットペーパーの買いだめが発生したころでした。昭和49年は「分業元年」と位置付けられ、処方箋料が500円に引き上げられました。しかし、分業は一向に進まず、当時は先発、後発薬価が同じであり、後発品(当時は「ゾロ品」と呼ばれていた)は大幅な薬価差益があり、医療機関は過剰投与が疑われる時代でした。

 昭和56年には、大幅な薬価ダウンから薬価差益にメスが入り始め、一方、平成に入り、医薬分業を国立病院から率先して始める対応がスタートしました。当時、大学病院の前には門前薬局が乱立し、国の目的であった「面分業」ではなく「点分業」になっていたと思っています。

 しかし、医療機関が処方箋を発行し、薬局で薬を処方してもらう、いわゆる「医薬分業」が少しずつ定着してきました。分業が進むかたわら、平成17年からは大幅な薬事法改正が施行され、委受託の緩和と合わせて査察制度もスタートし、品質に関する対応は大きく前進したと思っています。それに伴い、将来の少子高齢化社会に備え、医療の質を落さず医療費の削減を見据え、後発品(ジェネリック医薬品)の活用が、本格化して参りました。

 平成17年当時は30%程度であった後発品の使用率も、現在では80~90%まで引き上がり、医療費の削減と合わせ患者負担の削減にもつながりました。分業率も70%以上となり、「医薬分業」が完全に定着し、後発医薬品も市民権を得たと思っています。

 ただし、令和3年に変更計画を用いた承認事項の変更制度が法制化され、現在の品質問題とのかかわりが大きくクローズアップされるとともに、令和6年には品質に及ぼす影響が中等度リスクの変更事項のみを変更する場合の変更手続きの試行的な導入といった弾力的な運用について当局より検討されております。

 さて、富山県薬業連合会は製薬企業約80社、関連企業を合わせると約150社の団体であります。医療用が中心となりますが、その剤形は、内服薬、外用薬、湿布薬、点眼薬など多岐にわたり、あらゆる企業が参画しています。また、純粋な新薬開発は難しいものの、剤形変更、ジェネリック、受託製造、OTCなどいろんなビジネスモデルを描けると思っています。

 その中で共通する課題として、優秀な人材の確保とその教育が挙げられます。また、薬機法上、薬剤師の資格要件も一部あり、薬剤師の確保も必要です。その中で「ネクスト・ファーマ・エンジニア養成コース」や「薬剤師地域枠」「バイオ人材の育成」など、富山県で必要な人材の採用・育成など薬業連合会企業としては大変ありがたい施策であります。

 「富山のくすりコンソーシアム」は医薬品産業の発展の為に、絶対に必要な組織ですので、今後ともご尽力頂きたくよろしくお願い申し上げます。